LOGIN翌週の土曜日。
美咲は久しぶりに、仕事のことを考えない朝を迎えていた。 カーテンを開けると、薄い雲が広がっている。 雨は降っていない。 けれど、天気予報では午後から雨になるらしい。 「傘、持っていこう」 昨日のことを思い出して、少しだけ笑う。 あの日以来、雨を見ると蓮のことを思い出すようになっていた。 自分でも単純だと思う。 けれど、それが嫌ではなかった。 昼前。 美咲は駅近くの小さな喫茶店で、仕事用の資料を読んでいた。 休日くらい仕事から離れたいと思っていたのに、担当作家から修正原稿が届いてしまったのだ。 「あと少しだけ……」 そう呟いてページをめくる。 すると、入口のドアが開いた。 反射的に顔を上げる。 「……蓮さん」 まただった。 蓮は美咲に気づくと、少し驚いた顔をした。 「水城さん」 「こんにちは」 「こんにちは」 蓮は店内を見回した。 「一人ですか?」 「はい。仕事を少し」 「休日なのに大変ですね」 「蓮さんも?」 「僕は買い物の途中です」 そう言いながら、蓮は美咲の向かいの席を指差した。 「座っても?」 「どうぞ」 自然に言葉が出た。 蓮が座る。 二人の間に、少しだけ沈黙が流れた。 それはもう、初対面の頃のような気まずい沈黙ではなかった。 美咲はパソコンを閉じる。 「もう仕事、終わりにします」 「大丈夫ですか?」 「はい。蓮さんと話していたほうが楽しそうなので」 言ったあとで、また恥ずかしくなる。 最近、自分は少し素直すぎる。 蓮はそんな美咲を見て、柔らかく笑った。 「では、少しだけ付き合ってください」 「はい」 二人はコーヒーを飲みながら、他愛のない話をした。 好きな本。 苦手な食べ物。 休日の過ごし方。 蓮はあまり自分のことを話さない。 けれど、聞けばきちんと答えてくれる。 「蓮さんって、読書好きなんですね」 「昔から好きでした」 「昔から?」 「ええ」 そこで蓮の言葉が止まった。 美咲は気になった。 「……どうかしました?」 「いえ」 蓮はコーヒーへ視線を落とす。 「少し、昔のことを思い出しただけです」 「嫌なことでした?」 「そういうわけでは……」 言葉を濁す。 美咲は、それ以上聞かなかった。 すると蓮が顔を上げる。 「水城さんは、昔のことを話すのは嫌ですか?」 「私は……」 美咲は少し考えた。 「話したくないというより、話しても仕方ないと思ってるのかもしれません」 「どうして?」 「過去を変えることはできないから」 そう答えると、蓮はしばらく黙っていた。 やがて、小さく頷く。 「そうですね」 その声が、なぜか寂しそうに聞こえた。 店を出ると、空から小さな雨粒が落ちてきた。 「降ってきましたね」 美咲が空を見上げる。 蓮も同じように見上げた。 「傘、ありますか?」 「持ってます」 美咲が鞄から折り畳み傘を取り出す。 「今日は私の勝ちですね」 冗談めかして言うと、蓮が笑った。 「そうですね」 「この前は助けてもらったので」 「覚えていたんですね」 「忘れませんよ」 そう言った瞬間。 蓮の表情がわずかに固まった。 美咲は気づかなかった。 「じゃあ、駅まで」 「はい」 二人で歩き始める。 雨は少しずつ強くなっていた。 美咲は傘を持ちながら、隣を歩く蓮を見る。 「そういえば」 「はい?」 「蓮さんって、どこに住んでるんですか?」 ほんの軽い質問だった。 けれど、蓮の歩みが一瞬だけ止まった。 「……この近くです」 「そうなんですね」 「駅から少し離れたところです」 「じゃあ、結構近いんですね」 「そうですね」 それ以上、蓮は話さなかった。 美咲は気にしなかった。 けれど蓮の中では、別の記憶が蘇っていた。 五年前。 雨の夜。 同じような雨が降っていた。 あの日も、駅から少し離れた場所を歩いていた。 そして──。 「蓮さん?」 「……はい」 呼ばれて、我に返る。 「どうしました?」 「いえ。少しぼんやりしていたので」 「疲れてます?」 「大丈夫です」 そう答えた蓮の顔を、美咲は心配そうに見つめる。 「無理しないでくださいね」 「ありがとうございます」 その言葉に、蓮は少しだけ笑った。 けれど。 美咲には見えないように、拳を握っていた。 その夜。 蓮は一人で部屋に戻った。 照明をつける。 静かな部屋。 テーブルの上には、数日前に届いた一通の封筒が置かれていた。 差出人はない。 蓮はしばらく封筒を見つめた。 それから、ゆっくりと開ける。 中には、一枚の紙。 そこには短い文章だけが書かれていた。 ──五年前のことを、まだ忘れていない。 蓮の指が止まる。 しばらくして、紙を裏返した。 そこには日付が書かれていた。 五年前。 黒崎誠一が殺された日。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もない。 忘れようとしても、忘れられなかった。 あの日、自分がしたことも。 自分が見たものも。 そして──。 あの場所にいた、もう一人の人間のことも。 「……今さら、何のつもりだ」 誰もいない部屋で呟く。 スマートフォンが鳴った。 蓮は画面を見る。 非通知。 しばらく迷ったあと、通話ボタンを押した。 『久しぶりだな』 低い声が聞こえた。 蓮は答えない。 『まだ、あの女と一緒にいるのか?』 その瞬間。 蓮の表情から、すべての穏やかさが消えた。 「……美咲には関係ない」 『なら、巻き込むな』 電話が切れる。 蓮は暗くなった画面を見つめた。 そして初めて。 美咲と過ごす穏やかな時間が、いつまでも続くものではないのだと実感していた。「午前六時十二分……」 美咲は、資料に記された時刻を指でなぞった。 事件が起きたのは、五年前の六月十八日。 そして、見吉圭が黒崎グループに入館したのは、その翌朝。 六月十九日、午前六時十二分。 「契約終了日は六月十九日になっています」 美咲が言う。 「つまり、契約が切れる当日に、わざわざ会社へ来たってことか」 高瀬が腕を組んだ。 「はい」 「しかも、こんな早朝に」 二人は顔を見合わせた。 普通の出勤時間ではない。 まして、契約終了を控えた社員が、朝の六時過ぎに会社へ来る理由など簡単には思いつかなかった。 「入館した場所は?」 高瀬が尋ねる。 美咲は記録を確認した。 「社員用入口じゃありません」 「どこだ?」 「地下搬入口です」 高瀬の表情が険しくなった。 「……18番か?」 「そこまでは記録にありません」 美咲は首を振った。 「ただ、地下フロアへの入館記録になっています」
「……見吉圭」 美咲は、古い契約記録に残された名前を見つめていた。 何度読み返しても、名前は変わらない。 見吉圭。 五年前、黒崎グループのシステム保守を担当していた契約社員。 そして、事件の直後に契約を打ち切られた人物。 「これで、名前は確認できたな」 隣で高瀬が低く呟いた。 「はい。でも……」 美咲は、資料から顔を上げる。 「見吉さんが真犯人だとは、まだ言えませんよね」 「その通りだ」 高瀬は即答した。 「事件当時、見吉がどこにいたのか。黒崎と接触したのか。殺害に関わったのか。そこまでは、この記録だけじゃ分からない」 「それに……」 美咲は、野村の証言を思い出した。 事件翌朝。 地下搬入口。 帽子を深くかぶった人物。 そして、その人物が拾った紙片。 そこに書かれていた数字──。 「72」 「高瀬さん」 「なんだ?」 「野村さんが見た人物について、もう一度確認したいです」
野村から届いたメールを、美咲は何度も読み返した。 ──見吉圭は、事件の翌朝、地下にいた人物です。 そこまでは分かっている。 問題は、その次の一文だった。 ──ですが、私が見たのは彼だけではありません。 「もう一人……」 美咲は小さく呟いた。 高瀬にもメールを転送する。 数分後、電話が鳴った。 『読んだ』 「はい」 『野村に確認しよう』 「私もそう思います」 二人は野村と会うことにした。 待ち合わせ場所は、前回と同じ喫茶店だった。 野村は美咲たちが席に着くと、しばらく黙っていた。 「メールのことですね」 「はい」 美咲は手帳を開いた。 「見吉圭さん以外に、もう一人いたというのは?」 野村はすぐには答えなかった。 やがて、静かに口を開く。 「事件の翌朝、私は黒崎グループの地下搬入口近くにいました」 「どうしてですか?」 「神崎グループからの出向者として、前日の
翌朝。 美咲は、ほとんど眠れなかった。 頭の中を、あの五文字が何度も巡っている。 ──ミヨシケイ。 数字だったものが、名前になった。 けれど、まだ漢字が分からない。 美咲は出勤すると、すぐに高瀬へ連絡を入れた。 「昨日の数字、調べました」 『ああ』 「ポケベル暗号で読むと、ミヨシケイになります」 『それで?』 「漢字を特定したいんです」 『野村に聞くか?』 「はい。でも、その前に一つ確認したいことがあります」 美咲は昨日の資料を机の上に並べた。 黒崎グループ側の契約記録。 神崎グループ側の契約記録。 そして、地下管理室の入退室記録。 共通しているのは、ひとつの契約。 システム保守。 そして、契約担当者の名前だけが不自然に消されている。 「名前が消されたなら、別の場所に残っている可能性があります」 『社員名簿か?』 「それだけじゃありません」 美咲は答えた
美咲は、机の上に五つの数字を書き並べた。 72・83・32・24・12 何度見ても、意味が分からない。 高瀬も腕を組んだまま、その数字を見つめている。 「文字として読め、か……」 「はい」 相沢が残した言葉。 これまでの数字とは明らかに違っていた。 18・32・07・11・4。 こちらは場所や資料を探すための手がかりだった。 だが、 72・83・32・24・12。 これは違う。 五つの数字そのものが、何かを表している。 「数字を文字にする方法……」 美咲はスマートフォンを手に取った。 検索する。 数字を文字に変換する方法。 暗号。 数字表。 いくつもの情報が表示される。 しかし、どれもしっくりこない。 「違う……」 「何が?」 「この数字は、普通の暗号じゃない気がします」 美咲は画面を閉じた。
神崎グループの旧資料室は、黒崎グループのものよりも狭かった。 棚の数も少ない。 けれど、美咲は入口に立った瞬間から、妙な違和感を覚えていた。 「……ここ、本当に使われていないんですか?」 高瀬が周囲を見る。 「五年前に本社機能が移転してからは、ほとんど使われていないはずだ」 埃の積もった棚。 古いファイル。 誰も触れていないように見える。 だが──。 美咲は一番手前の棚に目を止めた。 「これ」 棚の端に、小さな数字が貼られている。 24 高瀬が眉を寄せる。 「またか」 「はい」 美咲は慎重に近づいた。 24番の棚には、古い内部調査資料が並んでいる。 その中から一冊を取り出す。 表紙には、 黒崎グループ関連調査 と書かれていた。 「相沢さんの資料かもしれません」 ページを開く。 取引先。







