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第4話  知らない過去

last update publish date: 2026-09-16 19:00:00

翌週の土曜日。

美咲は久しぶりに、仕事のことを考えない朝を迎えていた。

カーテンを開けると、薄い雲が広がっている。

雨は降っていない。

けれど、天気予報では午後から雨になるらしい。

「傘、持っていこう」

昨日のことを思い出して、少しだけ笑う。

あの日以来、雨を見ると蓮のことを思い出すようになっていた。

自分でも単純だと思う。

けれど、それが嫌ではなかった。

昼前。

美咲は駅近くの小さな喫茶店で、仕事用の資料を読んでいた。

休日くらい仕事から離れたいと思っていたのに、担当作家から修正原稿が届いてしまったのだ。

「あと少しだけ……」

そう呟いてページをめくる。

すると、入口のドアが開いた。

反射的に顔を上げる。

「……蓮さん」

まただった。

蓮は美咲に気づくと、少し驚いた顔をした。

「水城さん」

「こんにちは」

「こんにちは」

蓮は店内を見回した。

「一人ですか?」

「はい。仕事を少し」

「休日なのに大変ですね」

「蓮さんも?」

「僕は買い物の途中です」

そう言いながら、蓮は美咲の向かいの席を指差した。

「座っても?」

「どうぞ」

自然に言葉が出た。

蓮が座る。

二人の間に、少しだけ沈黙が流れた。

それはもう、初対面の頃のような気まずい沈黙ではなかった。

美咲はパソコンを閉じる。

「もう仕事、終わりにします」

「大丈夫ですか?」

「はい。蓮さんと話していたほうが楽しそうなので」

言ったあとで、また恥ずかしくなる。

最近、自分は少し素直すぎる。

蓮はそんな美咲を見て、柔らかく笑った。

「では、少しだけ付き合ってください」

「はい」

二人はコーヒーを飲みながら、他愛のない話をした。

好きな本。

苦手な食べ物。

休日の過ごし方。

蓮はあまり自分のことを話さない。

けれど、聞けばきちんと答えてくれる。

「蓮さんって、読書好きなんですね」

「昔から好きでした」

「昔から?」

「ええ」

そこで蓮の言葉が止まった。

美咲は気になった。

「……どうかしました?」

「いえ」

蓮はコーヒーへ視線を落とす。

「少し、昔のことを思い出しただけです」

「嫌なことでした?」

「そういうわけでは……」

言葉を濁す。

美咲は、それ以上聞かなかった。

すると蓮が顔を上げる。

「水城さんは、昔のことを話すのは嫌ですか?」

「私は……」

美咲は少し考えた。

「話したくないというより、話しても仕方ないと思ってるのかもしれません」

「どうして?」

「過去を変えることはできないから」

そう答えると、蓮はしばらく黙っていた。

やがて、小さく頷く。

「そうですね」

その声が、なぜか寂しそうに聞こえた。

店を出ると、空から小さな雨粒が落ちてきた。

「降ってきましたね」

美咲が空を見上げる。

蓮も同じように見上げた。

「傘、ありますか?」

「持ってます」

美咲が鞄から折り畳み傘を取り出す。

「今日は私の勝ちですね」

冗談めかして言うと、蓮が笑った。

「そうですね」

「この前は助けてもらったので」

「覚えていたんですね」

「忘れませんよ」

そう言った瞬間。

蓮の表情がわずかに固まった。

美咲は気づかなかった。

「じゃあ、駅まで」

「はい」

二人で歩き始める。

雨は少しずつ強くなっていた。

美咲は傘を持ちながら、隣を歩く蓮を見る。

「そういえば」

「はい?」

「蓮さんって、どこに住んでるんですか?」

ほんの軽い質問だった。

けれど、蓮の歩みが一瞬だけ止まった。

「……この近くです」

「そうなんですね」

「駅から少し離れたところです」

「じゃあ、結構近いんですね」

「そうですね」

それ以上、蓮は話さなかった。

美咲は気にしなかった。

けれど蓮の中では、別の記憶が蘇っていた。

五年前。

雨の夜。

同じような雨が降っていた。

あの日も、駅から少し離れた場所を歩いていた。

そして──。

「蓮さん?」

「……はい」

呼ばれて、我に返る。

「どうしました?」

「いえ。少しぼんやりしていたので」

「疲れてます?」

「大丈夫です」

そう答えた蓮の顔を、美咲は心配そうに見つめる。

「無理しないでくださいね」

「ありがとうございます」

その言葉に、蓮は少しだけ笑った。

けれど。

美咲には見えないように、拳を握っていた。

その夜。

蓮は一人で部屋に戻った。

照明をつける。

静かな部屋。

テーブルの上には、数日前に届いた一通の封筒が置かれていた。

差出人はない。

蓮はしばらく封筒を見つめた。

それから、ゆっくりと開ける。

中には、一枚の紙。

そこには短い文章だけが書かれていた。

──五年前のことを、まだ忘れていない。

蓮の指が止まる。

しばらくして、紙を裏返した。

そこには日付が書かれていた。

五年前。

黒崎誠一が殺された日。

蓮は目を閉じた。

忘れたことなど、一度もない。

忘れようとしても、忘れられなかった。

あの日、自分がしたことも。

自分が見たものも。

そして──。

あの場所にいた、もう一人の人間のことも。

「……今さら、何のつもりだ」

誰もいない部屋で呟く。

スマートフォンが鳴った。

蓮は画面を見る。

非通知。

しばらく迷ったあと、通話ボタンを押した。

『久しぶりだな』

低い声が聞こえた。

蓮は答えない。

『まだ、あの女と一緒にいるのか?』

その瞬間。

蓮の表情から、すべての穏やかさが消えた。

「……美咲には関係ない」

『なら、巻き込むな』

電話が切れる。

蓮は暗くなった画面を見つめた。

そして初めて。

美咲と過ごす穏やかな時間が、いつまでも続くものではないのだと実感していた。

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